斎藤茂吉
経歴
明治15 | 上山市金瓶生まれ |
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明治39 | 伊藤左千夫に師事 |
明治43 | 東京帝国大学医学科卒 |
大正2 | 「赤光」刊 |
大正6 | 長崎医学専門学校教授 |
大正10 | ヨーロッパ留学 |
大正13 | 医学博士 |
大正15 | 「アララギ」の責任者 |
昭和2 | 青山脳病院長 |
昭和12 | 芸術院会員 |
昭和15 | 「柿本人麿」帝国学士院賞受賞 |
昭和20 | 金瓶に疎開 |
昭和21 | 大石田に移住 |
昭和26 | 文化勲章受賞 |
昭和28 | 没 |
斎藤茂吉 |
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1882年(明治15)~1953年(昭和28) 歌人、医師。 医業のかたわら歌人伊藤左千夫に入門して歌を学ぶ。第一歌集「赤光」は、激しい叙情精神と鋭い感覚とを素朴な万葉調に託し、一躍作者の名を有名にし、とくに「死にたまう母」一連の作品は茂吉の名を不朽にした。作歌は万葉集をその基礎として「短歌写生の説」を実践、さらに「実相観入」を提唱しこれを追求しつづけた。島木赤彦の没後「アララギ」を主宰。戦後、大石田に移住、その流転相を飽くことなく詠みつづけた最上川詠は、「実相観入」による「写生」の大自在境に達したもので、生涯の最高峰「白き山」に結実した。歌集の他、歌論、評論、随筆、研究など、各分野に一流の力量を示した巨大な存在であった。上山市の斎藤茂吉記念館には、多くの資料・遺品が収蔵されている。 |