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絵図データベース
標題 | 出羽国置賜郡米沢領之図 |
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カテゴリ | 絵図 |
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サイズ及び形状 | 74×87センチメートル 軸装 |
書写人 | 針重 正寿 |
書写年 | 安政6年11月 |
拡大画像 | https://opac.lib.pref.yamagata.jp/zoomify/viewerfeatures/15yonezawaryonozu.html |
画像ダウンロード | 15出羽国置賜郡米沢領之図(13.2MB).jpg |
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解題 |
米沢松ケ崎城より郡内各村々までの道筋と道程及び川筋が描かれている。 絵図中に、本図は針重正寿が職務の節に写した旨の書入れがあるが、この針重正寿については幕末期の米沢藩分限帳等にも掲載がなく詳細は不明である。 また、本図は領内の地図として多くの人に使用されたことが窺え、筆跡の異なる書入れが明治期のものまで多く見られる。 |
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解説 |
この地図は1859年(安政6)に筆写された米沢(よねざわ)藩が治めていた領地の地図です。米沢藩は戦国大名としてよく知られる上杉謙信(うえすぎけんしん)の養子の景勝(かげかつ)を初代藩主とする藩で、以後上杉氏が代々出羽国の置賜郡を統治しました。当初の石高は30万石がありましたが、1664年(寛文4)に第3代藩主の綱勝(つなかつ)が養子を定めないまま急死したことを理由に15万石に領地が削減(減封(げんぽう))となっています。藩主の中でも第9代藩主の治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))は産業と学問を振興した名君として知られています。 地図の隅には米沢城の由来が記されています。これによると、米沢城は「松ヶ崎城」とも呼ばれ、古くは長井時広(ながいときひろ)(「永井左衛門大江時広」)が居城としましたが、その子孫の広房(ひろふさ)(「出羽守」)の時に伊達(だて)氏に支配されて一族郎党を置きました。天文年間には伊達氏の家臣の遠藤基信(えんどうもとのぶ)(「山城守」)が城主となりましたが、1590年(天正18)に蒲生氏郷(がもううじさと)が、文禄年間に蒲生郷安(さとやす)(「四郎兵衛」)が支配したとあります。また、別の書き込みによると、その後は蒲生氏にかわって上杉氏が支配し、1598年(慶長3)に直江兼続(なおえかねつぐ)(「山城守」)の居城となり、1601年(慶長6)には「松ヶ崎城」を「鶴舞城」に改めたとされています。 地図には上長井(かみながい)・北条郷(ほうじょうごう)・下長井(しもながい)西通(にしどおり)・下長井東通(しもながいひがしどおり)・屋代郷(やしろごう)・北方(きたかた)(小国(おぐに)郡北方)・南方(みなみかた)(小国郡南方)・中郡(ちゅうぐん)・外中津川(そとなかつがわ)・内中津川(うちなかつがわ)の各郡が描かれています。「松ヶ崎城下」や「御役屋」と呼ばれる支城などの拠点が赤色で塗られた四角形、町が四角形、村が楕円形で示されています。 |
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