絵図

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標題 秋元氏時代山形城図
カテゴリ 絵図
サイズ及び形状 93×81センチメートル 軸装
書写人 不明
書写年 天保5年(1834)
拡大画像 https://opac.lib.pref.yamagata.jp/zoomify/viewerfeatures/02akimoto_yamagatajozu.html
画像ダウンロード  02秋元氏時代山形城図(10.6MB).jpg
解題 秋元氏時代の山形城絵図である。
三ノ丸内、東側部分に家臣団の長屋割りが描かれ、西側部分には堰や通りの交差等が詳細に描かれている。二の丸には家臣団屋敷がなく、明和4年(1767)入部時には、すでに荒廃していたと考えられる。
城内は東側と西側に海抜差があり、伏流水が東から西へ流れる湧水地帯であったため、西側には長屋が見られなかったと考えられる。
本丸・二の丸・三の丸の各出入り門が克明に描かれている。
また城西三の丸内に「霊石(れいせき)」(通称:夜泣き石)が描かれており、「為君之菩提六助敬白相当文禄五年五月十三日」と読める。
原図にも「霊石」が書き込まれていたとすると、秋元家臣団長屋の棟割り図が特徴的なこの絵図に、なぜ異質の素材である「霊石」が出てくるのか興味深いものがある。
本丸南東角に描かれている「一文字門」は、山形市による平成の復元工事によって完成している。
解説  山形藩は1622年(元和8)に最上(もがみ)氏が領地を没収(改易(かいえき))となって以後、めまぐるしく城主が変わっていきますが、1767年(明和4)から1845年(弘化2)にかけて城主になったのが秋元(あきもと)氏です。秋元氏からは凉朝(すけとも)・永朝(つねとも)・久朝(ひさとも)・志朝(ゆきとも)の4人の城主が出ています。この地図には、秋元氏時代の山形城の様子が描かれています。
 青色で濠(ほり)(水堀)と堰(水路)、灰色で土塁、黄色で街路を示しています。秋元氏の時代には、藩主は本丸の本丸御殿ではなく、二の丸の東にのびる「東大手通」の南側の「新御殿」(地図上では「勘定所」「賄所」「土蔵」「クラ」「小ヤ」「薪大豆小ヤ」などのある一帯)において居住・政務を行い、本丸御殿は儀礼などに用いられます。最上氏時代の「最上家在城諸家中町割図」と比較すると、二の丸の側近の屋敷が描かれなくなっており、三の丸の西半分からも家臣の屋敷が消えています。三の丸の西側は土地が低く水が溜まりやすい地形であったため、この頃には水田や畑地として使用されたといいます。また、江戸時代の山形には、農業用水や生活用水として使用された、笹堰(ささぜき)・御殿堰(ごてんぜき)・八ヶ郷堰(はっかごうぜき)・宮町堰(みやまちぜき)・双月堰(そうつきぜき)という5つの堰が設けられていましたが、この絵図からは御殿堰が二の丸の北を、笹堰がその南を沿うように流れていることがわかります。