絵図

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標題 最上家在城諸家中町割図
カテゴリ 絵図
サイズ及び形状 233×184センチメートル 軸装
書写人 藤原 守春
書写年 江戸時代中期(諸説あり)
拡大画像 https://opac.lib.pref.yamagata.jp/zoomify/viewerfeatures/01mogami_machiwarizu.html
画像ダウンロード  01最上家在城諸家中町割図(11.7MB).jpg
解題 最上氏時代の山形城下絵図である。
本図は写本で、原図の所在及び作者等は現在も明らかになっておらず、また書写人とされる藤原守春についても文献では確認されておらず、詳細は不明である。
原図の成立や書写年代等については諸説があり、年代を直接証明する史料は確認されていない。定説では、最上家改易時の元和8年(1622)、幕府および鳥居氏との引継に使用されたもので、元和2年から元和8年頃の最上家57万石の城下が描かれているとされている。
近年相次いで発見された、慶長時代の山形城の様子を伝える、三の丸の出入口が10口で、城内に町人町が描かれている絵図(「秋元本」・「伊藤本」・「致道館本」他)の発見は、最上氏時代の山形城の推移を考えるうえで新風を吹き込んだといえよう。
本図は、現存する写本のうちで、色彩も鮮やかで、家臣の屋敷割や本丸・二ノ丸・三ノ丸の形態等が詳細かつ具体的に描かれており、描図や字体からも最も優れたもののひとつと言われている。
解説  山形には、室町時代の1356年(正平11・延文元)に幕府から出羽国(現在の山形県・秋田県)の支配を行うために京都から派遣された羽州探題(うしゅうたんだい)・斯波兼頼(しばかねより)が、支配の拠点として山形城を築きました。さらに、戦国時代に戦国大名として活躍し、江戸時代には1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの功績によって石高(こくだか)(米換算の1年間の生産量、国力の基準)57万石の広大な領地の支配を許された斯波の子孫で山形藩の初代藩主・最上義光(もがみよしあき)は、政治・軍事の拠点とするために山形城の拡張と城下町の整備を行います。この地図は、最上義光によって行われた山形の大改造後の様子がわかるものです。
 この地図は左上が北となるように描かれています。本丸(「御本丸」)が朱色、本丸と二の丸の土手と石垣が白色・黒色、三の丸の土手が黒色、濠(ほり)(水堀)が紺色、馬見ヶ崎(まみがさき)川が濃紺色、空き地が薄緑色、街路が薄茶色、寺社が茶色で示されています。山形城は本丸・二の丸・三の丸が濠と土塁で囲まれた城として整備され、本丸には藩主が居住する本丸御殿、二の丸には藩主の側近の屋敷、三の丸には藩の重臣の屋敷が整備されました。一つ一つの屋敷には屋敷を与えられた武士の名前が記されています。三の丸の外側には、商工業を営む町人の住む城下町・山形城下が広がっています。街路には町名と、街路をはさんだ両側に町家が赤色で記されています。このような街路の両脇に町家が置かれる町のことを一般に両側町(りょうがわちょう)と呼びます。最上氏の時代には、三の丸の内側に寺社が、外側に武士の屋敷があり、厳密な土地利用がまだなされていないことがわかります。