絵図

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標題 保科氏時代山形城下絵図
カテゴリ 絵図
サイズ及び形状 107×78センチメートル 軸装
書写人 不明
書写年 明治40年(1907)
拡大画像 https://opac.lib.pref.yamagata.jp/zoomify/viewerfeatures/03hoshina_yamagatajokaezu.html
画像ダウンロード  03保科氏時代山形城下絵図(11.8MB).jpg
解題 保科氏時代の山形城下絵図である。絵図中標題には「保科氏時代山形市全図」とある。
明治期に書写されたものであるが、鳥居氏時代の絵図が確認できていないことから、最上氏以後の山形城下を知る貴重な絵図である。
絵図中の脚注に「本図ハ寛永十七年ノ調整ニシテ今明治四十年ヲ去ル正ニ二百六十八年ナリ」等と年代の記載がある。寛永17年(1640)の根拠は不明なるも、福島県立博物館所蔵図の人名表記と共通点があり、原本は同系統である可能性が高い。
保科氏の山形入部は寛永13年(1636)、会津への移封は寛永20年(1643)であり、本図は山形在城時代に描かれた可能性が高い。
絵図中に、一説には鳥居氏時代に改修されたとされ、また「家世実記」によれば保科氏時代に大改修されたとされる、馬見ケ崎川の改修前の川筋が見える。
旧や元の表示は記載されておらず、福島県立博物館所蔵の絵図と同様、旧馬見ヶ崎川が大きく描かれていることから、保科時代になっても旧馬見ヶ崎川が以前の川筋のままに、まだ流れていた可能性があると見られる。
解説  最上(もがみ)氏が1622年(元和8)領地を没収(改易(かいえき))となった後に山形城主となったのが鳥居(とりい)氏です。鳥居氏からは、忠政(ただまさ)・忠恒(ただつね)の2人の城主が出ました。その後、1636年(寛永13)から1643年(寛永20)にかけて城主をつとめたのが、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子で、第3代将軍・家光(いえみつ)の弟であった保科正之(ほしなまさゆき)です。この地図は保科が山形城主であった頃の山形城と山形城下が描かれています。ちなみに、保科は山形城主をつとめたあと、陸奥国(現在の福島県会津若松(あいづわかまつ)市)会津藩主となり、その子孫(松平(まつだいら)氏)が代々会津を統治しました。
 この地図は左上が北となるように描かれています。土塁が黒色、濠(ほり)(水堀)が水色、建物が黄色で示されています。最上氏時代の「最上家在城諸家中町割図」と比較すると、おおむね、三の丸の内側に山形藩の家臣の屋敷が、三の丸の外側には町家(通りの名前が書いてある両脇の建物)と寺社が集められており、土地利用が整然と分けられていることがわかります。三の丸の内側を武士の特権的な空間にしようとしていたことが地図から読み取れます。