絵図

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標題 水野氏時代山形城下絵図
カテゴリ 絵図
サイズ及び形状 201×136センチメートル 軸装
書写人 不明
書写年 不明
拡大画像 https://opac.lib.pref.yamagata.jp/zoomify/viewerfeatures/12mizuno_yamagatajokaezu.html
画像ダウンロード  12水野氏時代山形城下絵図(10.7MB).jpg
解題 幕末水野氏時代の山形城下絵図である。絵図中標題には「水野時代山形市全図」とある。
絵図中、三ノ丸内に、秋元氏時代に造営され、以後水野氏時代まで藩主の居住と藩政に使われた「新御殿」が、また本丸内には秋元氏時代の絵図に無い「最上義光社」が見える。三の丸内に描かれた棟割り長屋の光景は昭和まで見られた。
絵図中の標題に「山形市」とあることから、市制が施行された明治22年(1889)4月1日以降の書写とわかるが書写年は確定できない。
解説  「水野時代山形城図」と同様、1845年(弘化2)から1869年(明治2)にかけて、山形藩主をつとめた水野(みずの)氏の時代の山形城・山形城下を描いた絵図です。
黄色が道、青色が堀・川、緑色が土手、桃色が長屋、橙色が町家、赤色が稽古所、白色が番所、黒色が口留番所(くちどめばんしょ)、薄橙色が土蔵・籾堂・普請小屋・塩硝調合場に色分けされています。1767年(明和4)から1845年(弘化2)にかけて城主になった秋元(あきもと)氏時代の「秋元氏時代山形城図」と比較すると、主な特徴としては、本丸に最上義光(もがみよしあき)社、二の丸に農業や土木に使用した籾堂・土蔵・普請小屋などの構造物や「稲荷」「雷神様」の施設、三の丸には火薬の製造に使われる塩硝蔵・調合場などが新たに確認できること、二の丸西に存在していた三階櫓が「三階櫓跡」となって失われていること、三の丸の東の勘定所などがあった一帯が「新御殿」となっていること、「新御殿」の東向かいが「泰安寺」(秋元氏の菩提寺)であったものが稽古所(藩校経誼館(きょうぎかん))となっていること、「為君之菩提六助敬白相当文禄五年五月十三日」と書かれた霊石(夜泣き石)が消失していることなどがあります。また、三の丸の外の山形城下についても描かれており、七日町から旅籠町に至る道沿いに「本陣」「会所」「脇本陣」「牢屋」など山形城下を運営するための施設が集中して配置されていることがわかります。