絵図

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標題 水野時代山形城図
カテゴリ 絵図
サイズ及び形状 149×125センチメートル 軸装
書写人 不明
書写年 不明
拡大画像 https://opac.lib.pref.yamagata.jp/zoomify/viewerfeatures/13mizuno_yamagatajozu.html
画像ダウンロード  13水野時代山形城図(10.9MB).jpg
解題 幕末水野氏時代の山形城絵図である。
絵図中、二ノ丸及び三ノ丸内に畑地が目立ち、また三ノ丸の長屋に家臣名の記載はなく、全体的に用水や田畑、堰の交差等が詳細に描かれている。
藩主の居住と藩政に使われた「新御殿」が三ノ丸内に、また秋元氏時代の絵図に無い「最上義光社」が本丸内に見える。
解説  「水野氏時代山形城下絵図」と同様、1845年(弘化2)から1869年(明治2)にかけて、山形藩主をつとめた水野(みずの)氏の時代の山形城・山形城下を描いた絵図です。
 黄色が道、緑色が土手、青色が堀・川、桃色が士分長屋(正規の武士の屋敷)、水色が軽輩長屋(足軽などの屋敷)、赤色が土蔵・籾堂・普請小屋・稽古所などの建物、白色が番所、橙色が畑、黄緑色が田に色分けされています。「水野氏時代山形城下絵図」と大きく異なる特色は、田と畑などの土地利用が細かく描かれている点です。三の丸内の土地利用は、最上(もがみ)氏時代の「最上家在城諸家中町割図」を見ると、もともとは山形藩の家臣の屋敷が軒を連ねていましたが、1767年(明和4)から1845年(弘化2)にかけて城主になった秋元(あきもと)氏時代の「秋元氏時代山形城図」では、西側から屋敷が消失していました。この地図からは、屋敷が消えた部分が田や畑として利用されていたこと、東側についても、屋敷の周囲に畑が設けられていたのが分かります。さらに、東側から注ぎ、二の丸の北側を走る御殿堰(ごてんぜき)、同じく東側から注ぎ二の丸の南側を走る笹堰(ささぜき)が、藩主が居住・政務を行う「新御殿」や武士の住む屋敷の合間、あるいは田畑に注がれ、生活用水や農業用水として実際に使用されていたこと、これがさらに西側に注ぎ、三の丸外の西側にあった町や村の用水として使用されていたことがわかります。